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『緋の分岐点』
―――嫌い!嫌い!嫌い!
こんな世界なんて、大っ嫌い!!
涙はすでに枯れていた。
尋常でない力によって吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた身
体はまだずきずきと痛むけれど、そんなのはもうどうでもいい。
―――嫌い!嫌い!嫌い!
あたしの精一杯の勇気を踏みにじった先輩も。
先輩に受け入れてもらえなかったあたし自身も!
ナイフで傷をつけた手首から、どくどくとリズムすら刻んで真
っ赤な鮮血が溢れてくる。
まるで、あたしの心が流している涙のように。
―――嫌い!嫌い!嫌い!
あたしを、同情の目で見た・・・・1人だけ先輩に愛されて優
越感に浸ってた・・・・水元さんは誰よりも大っ嫌い!!
だから、いらない。
あたしを愛してくれない世界なんて。
あたしなんて。
全部消えてしまえばいい。
先輩も水元さんも。
みんなみんな・・・全部いらない!
ドンドンドンッ
「桂子ちゃん!一体どうしたの!?学校で何があったの!?」
お母さんの声が聞こえる。うるさい。
「ぼろぼろになって怪我してたじゃない!?さっきから救急車の
サイレンが鳴りっぱなしだし・・・一体どうしたのよ」
鍵をかけているから入って来れないはず。
うるさい。ほっておいて。
あたしは、もういらないの。
お母さんもいらないの。
あたしをこんな世界に生んだ、あたしなんかを生み出した、あ
なたも嫌いなのよ!
「ここを開けて、桂子ちゃん!」
ガチャガチャと激しくノブを動かす音が聞こえるけど、どうだ
っていい。
床に倒れたあたしの視界に、あたしから流れ出た真っ赤な血が
絨毯を染めていく。
綺麗。
染みが広がると共に、あたしの意識は朦朧としてきたけれど、
この先に待っているのが『死』だと思うと、嬉しくなった。
この世界を消すことは出来なくても、あたしという1つの世界
を消すことはできる。
そう思うと、少し満足した。
流れ出る真っ赤な涙はもう止まらない。
―――嫌い!嫌い!嫌い!
こんな世界なんて、大っ嫌い!!
◇◇◇◇◇
破壊と混乱。
恐怖の感情に支配された学校の中は凄まじい形相を見せていた。
どこかで壁が崩れる音。
けたたましい救急車や消防車のサイレンが近付くにつれ、混乱
はさらに加速する。
すでに、先ほどまでの激しい爆発や得体のしれない人間の姿は
なくとも、我先に避難しようとする人々の騒ぎが落ち着く気配な
どない。
パニックに陥った時、先生も生徒も関係なくなる。
ただ、自らの生存本能に従うだけだからだ。
その中で。
数名が姿を消していたことに、誰も気付かない。
騒ぎの中心にあった人物を知るものたちでさえも。
想い人をかばった為に自らの身体を盾にした少年は、自らの身
体から流れ出る血の為に意識を失っていたから。
想い人の先輩に助けられた少女は、あまりのショックで意識を
飛ばしていたから。
混乱はまだ続いている。
この騒ぎを引き起こした者たちにとっても、混乱はおさまるど
ころか、さらなる混乱に巻き込まれていた。
――――時の縦糸と言う、存在するべきでない時と場所に投げ
出されてしまっていたのだ。
◇◇◇◇◇
混乱が見える。
人々の本性が暴露されて、混乱に拍車がかかっている。
だから、誰1人としてここにいる存在に気がつきはしない。
「・・・・どうせならもっと派手に、全部壊れてしまえばよか
ったのよ・・・」
会堂へ一度は封印されながらも隙をついて脱出してきた坂崎を
追ってきた《世界》に、運命のタロットの関係者が飲み込まれて
しまってすぐの事。
この時代にいないはずの存在が、混乱の極地にある学校の遥か
上空に突然現れていた。
「懐かしくはないかい?」
まるで透明な板の上に立っているような少女の身体を後ろから
包み込むように抱いている精霊が、微笑を浮かべながら協力者の
少女を覗き込む。
一瞬心底厭そうな表情を浮かべて、田村桂子はすぐに唇の端を
少しだけ上げた。
「懐かしくなんてないわ。だけど・・・世界を壊したいという
あたしの思いの原点は、この日この場所・・・」
「そう。その思いの強さに惹かれて私が現れたのは、間違いな
くこの日この場所だ」
ピンクの髑髏の下から流れている、長い銀髪を指で絡め弄びな
がら、桂子は小さく笑った。
「《死神》はあたしを死なせてはくれなかった。あの時死なせて
くれていたら『改変』できていたのに」
「私も協力者が必要だったからね」
「ティターンズだったあなたがプロメテウスとして生まれ変わ
った日よ」
「純粋な人間としては、桂子が死んだ日とも言える」
「そうね。だけど・・・・あたしはここにいるわ」
不意に目をすがめて木々が生い茂る『公園』へ視線を向けた。
そこで何があったか、誰がいるのか。
すでに遥か過去の記憶となったはずの事象が、鮮やかに呼び起
こされる。
何も知らなかったあの頃には戻れない。戻りたいとも思わない。
懐かしさなんてない。
あるのはただ、憎悪に近い、嘲りの感情だけ。
「・・・・いい気味だわ。みんな苦しめばいいのよ」
吐き捨てるような言葉に、《死神》の瞳が細くすがめられた。
誰に対してのセリフなのか、今までの付き合いでわかり過ぎる
程わかっている。
「彼も一緒だがいいのかい?」
「かまわないわ。あの人だって似たようなものだもの」
暴走した《世界》の出現によって時の縦糸の中に放り出された
メンバーの行方は知っていた。
そこでふと思いを巡らし、ニイっと唇の端に笑みを浮かべる。
瞳に浮かぶのは暗い歓喜。
「水元さんにはこれからたっぷりと苦しんでもらうのだし・・・
そうね、あの人に挨拶くらいしてみてもいいかしら」
「彼にかい?」
「そうよ・・・・どんな顔をするか、楽しみだわ」
固有名詞がなくとも《死神》には協力者の考えがわかるらしい。
パチンとピンクの骸骨の甲冑で覆われている指を鳴らすと、フ
レアを纏った白い馬が現れた。
空中を駆け、ぶつかる勢いで近付く。
次の瞬間。
その馬ごと、2人の姿はこの世界から消えていた―――
◇◇◇◇◇
――――ここはどこだ・・・・?
鈍い衝撃が身体中を麻痺させていた。
それでもそろそろと手を上げて目に映す。
手は、手として自分の目に映ったことに、ほっと安堵の息を吐
いた。
自分の意識と身体の感覚がバラバラになって吹き飛ばされそう
な、あの何とも形容しがたい状態から、どうやら助かったらしい。
上半身を起き上がらせて、初めて自分が土の上に倒れていたこ
とに気がついた。
・・・・ここはどこだろう?
さっきまでは学校にいたはずだ。
そこまで思ってハッと回りを見渡す。
普通では考えられない力で校舎を破壊させていた男。
混乱と悲鳴。
青白い光。
タロットの精霊。
水元さん・・・!
ガバっと立ち上がり、ふと自分の手がカードを握りしめている
のに気がついた。
「・・・《愚者》のカード・・・」
今、その手の中にあるカードにはあるべき絵が消えていた。
何度も見たはずの絵が、そこにない。
――――いや。そこに描かれていた存在こそがタロットの精霊
として目の前に現れたではないか。
この手にあるカードの存在こそが、先ほどの事件が悪夢ではな
く実際に起こったものなのだと証明しているかのようだった。
「・・・・どうなったんだ・・・・私は一体・・・?」
再び回りを見渡す。
自分の他に、誰の姿も見当たらない。
静かな時間。
煩わしい騒音はなく、落ちてくる木漏れ日も目に優しい。見覚
えがある・・・・ここは・・・
「・・・・公園、か?」
もう一度よく回りを見て大きくため息をついてから立ち上がる。
どういうわけで校舎の中からこの場所に来たのかはわからない
が、取りあえず校舎に戻らなくては。
あれだけの騒ぎがあったのに、ここはこんなにも静かでいつも
のように平和で。
手に絵柄の抜けたカードを手にしていたが、やはりどこか夢を
見ているような、そんな気がしていた。
カードをポケットに仕舞ってから立ち上がり、校舎の方へ歩き
出すと、しばらくしてから木に隠れるようにする何かの気配を感
じた。
はっと全身が緊張する。
敵意はなく、微かな、様子をうかがうような気配に、警戒をま
ぶしながらも思いきって声をかけてみた。
「・・・・そこにいるのは、誰だ?」
緊張しながら立ち止りその木の方に視線を向けると、しばらく
してから恐る恐るといった感じで、1人の女生徒が現れた。
顔を上げず、おどおどした行動に、彼女が内気な性格だという
のが伝わってくる。
彼女の顔を見た瞬間、はっと息を飲んだ。
名前は、わからないが・・・・間違いない。
今朝、騒ぎが起きる前。
部室で話をした人だ。
「あ、あの・・・すみません」
隠れて見ていたのが後ろめたいのか、微かに頭を下げてくる。
「君は・・・?」
「これ・・・手紙、読んで下さい」
名前を訪ねようとしたのだが、今までおどおどしていたのが嘘
のように素早くポケットから1通の手紙を取り出し、私の手に押
し付けると、まるでウサギのごとく素早く走り去ってしまった。
あぜんとしてその背中を見送る。
(手紙、読んで下さいましたか)
今朝の場面が蘇る。
(もう、1ヶ月にもなります)
―――――まさか・・・!
1つの仮定が頭に浮かんで私は慌ててその手紙を開いた。
淡いピンク色の便箋に、小さな字で私への思いが綴られていた。
手紙の最後に、クラスと名前が記してある。
「田村桂子・・・」
あの朝、私を呼び止め部室で話をした彼女は、手紙の返事を要
求していた。
私には覚えのない、1ヶ月前に渡したという手紙の返事を。
もし、それが今の事だとしたら。
まさか私は・・・・!?
――――パアァァァァッッッ
突然眩い光が視界を染め上げた。まるで傍らにもう1つの太陽
が現れたかのような、真っ白い圧力さえ感じる光芒。
「まぁったく、手間かけさせやがって」
思わず手で目をかばっていた私の耳に、聞き覚えのある声が飛
び込んできた。
そろそろと目を開くと、先ほどまでの光は欠片もない。
かわりに2つの人影が見えた。
「女の子の協力者ならいざしらず、俺が男の為にこんなに苦労
したんだぜ?少しは感謝しろよな、石頭」
「あら、これはあなたの為でもあるでしょう?恩に着せるよう
なものではないと思うけれど」
目に飛び込んできたのは巨大な輪。
人の背丈以上もの巨大な輪が彼女の手に握られていた。
「一体・・・!?」
掠れた声で呟き、奇妙な事に気付く。
音がしない。
それどころか、声を発し身じろいだ自分の身体から、するりと
もう1人の自分が抜け出したのだ。
「時を止めたのよ。だから思念が肉体から分離されているだけ。
心配はいらないわ」
驚きで彫像と化した身体と自分の目に映る手とを交互に眺めて
いると、白い大きな翼を背にした女性が微笑みかけてくる。
「一体・・・何がどうなっているんだ・・・?」
色々な事が一度に起きて、さすがに頭の中がいっぱいになって
いた。
訊ねた声は干涸びている。
説明を求めた相手は軽く肩を竦めてみせた。
「ここは5月16日の『幹』。あなたが先程までいた時間の1ヶ月
以上過去にあなたは飛ばされてしまったのよ」
「1ヶ月・・・過去・・・」
(もう、1ヶ月にもなります)
「いきなり攻撃しかけてきた坂崎って奴を追って《世界》が来
ちまったからな。時の縦糸に飲み込まれた俺たちはバラバラに外
に出たから、はぐれちまってたけど」
「はぐれて・・・・っ、水元さんたちは!?」
あの時の感覚が蘇る。
物凄い光と音の本流に飲み込まれ、自分の身体がバラバラに分
解されていくような、感覚。
微かな意識の中で、私を先に助けるように求めていた水元さん
の声を聞いたような気がする。
「あの2人なら・・・」
「――――生きてはいるわ。取りあえず今のところはね」
「誰だ!?」
聞き覚えのない声が突然割り込んできた。
《愚者》にも覚えがないのか身構えている。
と、先程と同じような眩い光の固まりが突然現れた。翼をつけ
た女性が微かに目をすがめる。
「アカシックレコードを読めるのは、何も《運命の輪》だけじ
ゃない」
光の中からの声に《愚者》がはっと目を見開いた。
「久しぶりだね、フーさん。いや、久しぶりと言うのはおかし
いかな?この時代にいる君とは、ついさっき会ったばかりのはず
だったな」
「・・・・フーさんって呼べるのは女の子だけだって言ったは
ずだぜ。プロメテウスなんぞに寝返った裏切り者に気安く呼ばれ
る筋合いはない、ともな」
「やれやれ、つれないな」
光が弾けた後には、2人の姿があった。
ピンク色の骸骨の甲冑を身につけた人と、もう1人・・・・!
「君は・・・・!」
「ふーん、てっきりおかまだと思っていたが、新しい《死神》
の協力者は女の子ってわけか」
皮肉げな言い合いをしていたにも関わらず、《愚者》が彼女の姿
を認めてヒュウっとこの場にそぐわない口笛を鳴らした。
視線を向けられた彼女は薄く唇に笑みを浮かべている。
なのに微笑みと言う表現からは程遠い・・・嘲笑とも言える表
情を浮かべる彼女は、間違いなく・・・。
「世の中で一番惨めな者って、知っている?」
突然の突飛もない彼女からの質問に、《愚者》は目を丸くした。
「片桐先輩は、わかっていると思うけど」
そんな《愚者》の事にはお構い無しに、こちらへついと視線を
向けてくる。
その話し方は、つい先程会った彼女と全然違う印象を醸し出し
ていた。
小さくおずおずとした喋り方で、相手の顔を見ることも難しか
った内気な印象は全くない。
はっきりした口調。相手を見下した力のある視線。
一瞬別人かと思わせる程、身に纏う雰囲気も印象も違っていた。
「何だ、石頭。彼女と知り合いか?」
『運命のタロットの協力者』になりたての相棒にいぶかし気な
眼差しを送る《愚者》に、彼女が薄く笑った。
「世の中で一番惨めな者・・・・それは、好きな人に存在すら
忘れられた女よ」
「あっ・・・!?」
彼女の言葉と同時に、制服のポケットに仕舞っておいた手紙が
不可視の手で抜き出された。目を見張り見守るうちに、その手紙
は宙をすべり彼女の手に触れると、一瞬のうちに燃え上がってし
まう。
「でも、あなたは2度とあたしを忘れる事は出来ないわ」
すうっと腕をもちあげて無造作に袖をめくる。そこに現れた古
い、けれど生々しく残る手首の傷跡にギクリとした。
「あの時、人間のあたしは死んだの。今ここにいるのはプロメ
テウスの《死神》の協力者としてのあたし」
(手紙というのは、いつ?)
(す、すみませんでした)
「それは・・・」
口の中が干上がっていた。
背筋を冷たい汗が滑り落ちていく・・・・後から、肉体から離
れた思念がそういう感覚を生み出していただけだとわかったが。
あの時というのが、つい先程までいた時間のことだとわかる。
そして多分、あの傷が示す意味も。
「私は・・・・」
「誰にでも優しい片桐先輩」
彼女のその一言は、ズキリと心臓に針を打ち込んだような鋭い
痛みを感じさせた。
「・・・・いやぁ、毒のある女ってのもなかなか魅力のあるも
んだが、ちょっとこの石頭の手にはおえないみたいだぜ?」
私たちのやり取りを眺めていた《愚者》が、大袈裟に肩を竦め
た。
「彼女は私の協力者だ」
「そんなの見りゃわかる」
「彼女の流した涙の為に、私はプロメテウスへと転向したのだ」
「はぁん・・・《死神》ともあろう者が女に惑わされたってわけ
だ」
嘲るような《愚者》の言葉にも、2人は表情を変えない。
《死神》と呼ばれていたピンク色の骸骨の甲冑を身に纏った精
霊が、彼女を当然のように抱き寄せた。顔の横に落ちてきた長い
銀色の髪を指で絡め、軽く口付ける彼女の顔に浮かぶ妖艶な笑み。
「これからが楽しみだわ。これからあなたは世界は綺麗事じゃ
すまされないってことを嫌ってほど思い知るんですもの。そして、
一生あたしを忘れないんだわ」
「田村さん・・・」
「本当に、楽しみだわ・・・」
つぶやきと共に2人の身体が眩い光に包まれる。現れた時と同
じ光の固まりになりあまりの眩しさに目をすがめた次の瞬間、2
人の姿は視界から消えていた。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
「何だったんだい、ありゃあ」
「・・・・『運命のタロット』の協力者となった片桐くんへ、挨
拶に来たようね」
「へぇ・・・友好的なんだか喧嘩売りにきたんだかわからない
がね。なぁ、石頭」
軽い《愚者》の呼び掛けに、私は答える事が出来なかった。
彼女の手首についていた傷痕が脳裏にこびりついて消えない。
彼女にそのような行動を取らせたのは・・・・
「・・・・・私のせい、なのか・・・」
唇が震えて零れ落ちた言葉に、ピクっと《愚者》が反応した。
「私が手紙を読んでいれば・・・彼女の気持ちを汲んでいれ
ば・・・・」
「言っても仕方のない事よ。田村さんが《死神》の協力者とな
ることは歴史で決まっていることなの」
「しかし・・・!」
「俺たちはティターンズだ」
諭しつけるような《運命の輪》の言葉に反論しようとした私を、
《愚者》の強い声が止めた。
カードから現れてから・・・私が協力者となってから初めて見
せる真剣な表情と声音に言いかけた言葉を失う。
「あの子との間に何があったのかはおおよそのさっしはつくけ
どな。起きてしまった歴史を自分の都合のいいように無理矢理変
えようとするのは、愚か者のする事だぜ」
「《愚者》・・・」
「プロメテウスの連中は歴史を変える事、『改変』こそが正義だ
と息巻いているがな」
「『改変』・・・・」
「『タイム・パラドクス』と言ったほうが片桐くんには分かりや
すいかしら」
《運命の輪》は依然微笑みを絶やさない。
「『タイム・パラドクス』・・・・」
「ま、フェーデをやってくうちに、おいおいお前さんにもわか
ってくるさ」
真面目だった表情と声が一変して、いつもの飄々とした雰囲気
に戻った《愚者》に、もう一度言葉を失った。
ぞわり、と。
冷たい汗が背中を滑り落ちていく。
予感はしていた。
人の理解を超えた、大きな渦に巻き込まれた事を。
水元さんがその渦に巻き込まれ、私をかばおうとしていたこと
も、何となくわかっていた。
カードを手にし、この世界の事を知り始めたばかりの時に再び
襲われ、不安がよぎった。
もしかしなくとも、後戻り出来ない世界に足を踏み入れてしま
ったのではないか、と。
けれど、そこには甘さがなかっただろうか?
どこか小説の中の出来事を覗いているような。
一度は戦いに巻き込まれ怪我を負ったけれども、目が覚めた時
には跡形もなく消えていたのも、その一因となっていて。
当事者になったはずの今、この瞬間まで。
どこかSF小説の主人公にでもなったような、そんな気持ちに
なっていなかっただろうか?
――――これが、現実。
いかに現実離れしていても、人智の理解を超えていても。
これが、踏み込んでしまった、後戻りの出来ない、現実。
「さて。そろそろ《運命の輪》に送ってもらうか。ライコちゃ
んたちがどうなったかも気になるしな」
「そうね。ここにはもう1人の片桐くんがいるのだし、これ以
上この場所にいる必要はないものね」
「・・・・もう1人の私?」
言いかけて、1ヶ月前に来てしまった事を思い出す。彼女の手
紙を受け取っていない私が、ここにいる。
「バカな事考えるなよ、石頭」
「・・・・ああ」
しっかり釘をさしてくる《愚者》に重いため息で返した。
ここにいるのは、この時間にいるべきでない私なのは、苦い思
いと共によくわかったから。
「戻ろう」
あの、混乱の中に。
『運命のタロット』の協力者という、覚悟も新たに始める為に。
《愚者》が軽く肩を竦め、《運命の輪》が僅かに目を伏せた。
次の瞬間。回りの景色や音がぶれ、からからと彼女が手にして
いる巨大な輪が回り始めた。
(誰にでも優しい片桐先輩)
――――彼女の言葉が耳に蘇る。
見えるはずのない、知るはずのない、手首を伝う赤い流れが。
いつまでも脳裏にこびりついて離れなかった・・・・・
◇◇◇◇◇
大勢の人の運命を変えた日。
これだけの大事件でも、世界の中ではほんの些細な出来事なの
かもしれない。
けれど。
混乱と緋色に彩られたこの日を、忘れる事など出来ないだろう。
消えた人間の事も、暴れていた人間の不可解な力の事も。
事件の真相は謎なまま、月日が経って人々の記憶から薄れてい
っても、心の奥底に刻まれた傷は消えるわけではないから。
混乱と破壊、憎しみと悲しみ、恐怖と歓喜。
様々な感情を、不吉で鮮やかな緋色が彩っていたこの日の事を
―――――――――――――――――――――――――――――――
Fin
和音のコメント
8000ヒット(・・・一体いつの話だ・・・汗)を取ってくださった
水月桜さんからのリクエストは・・・
『片桐さんの話(協力者になってからの、
できれば《愚者》とのコントなしで)』
『桂子ちゃんの話』
『《悪魔》ちゃんの話』
・・・と、3つ頂きまして。このうちの片桐さんと田村さんの
2人を中心に話を組み立ててみました。
片桐さんのファンの方、ごめんなさい。
嫌いじゃないんですけれど、いじめてしまいました。
田村さんは書きやすかったんですけれどね。
最後が上手くまとまらなかったんですけれど・・・・
長い間お待たせした挙げ句、なんとも言いがたい話になってしまって
申し訳ありませんが、よろしかったらお受け取り下さいませ♪
鈴麻のコメント
痛い。読み終えて真っ先に思った感想がなんて痛い話だ。です。
いえ、別に田村さんの血の話じゃないですよ(苦笑)
田村さんの話は必然的にとことん暗い系か、むしろ思い切って
ギャグにするしかないのですが(笑)彼女の裡にある暗い深遠を
のぞきこんでしまったような気持ちです。
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