投稿者:天翔さん
雪が、降っている。
音もなく色もなく、ただ、しんしんと。
北国と違って、このあたりの雪は重い。降りそそぐ花びらは大きく、ゆるくカーブしていて、天使の羽毛のようだ。
時おり、鳥たちが寒そうに鳴く声がきこえる。チィチィと、相方を呼んでいるのかもしれない。しかしその歌も近く遠く、ふと気づけばあたりは静寂につつまれる。
白一色。
天も地も、そのはざまにあるものたちも、すべてが白い。小高い丘の上からは、いつもとは違う風景がよく見えた。
「……大雪ね、街にしては」
雪景色をながめたまま、あたしは呟く。後ろから、ああ、と応える声。
丘のてっぺんには、大きな銀杏の木が一本、枝を大きくひろげてそびえている。葉はすべて落ちてしまっているから、雪はその根元にも積もりつつあった。
あたしは、丘のふもとの坂道で、自転車を押して歩く少年を見つけた。
中学、高校ぐらいだろうか。赤い顔をして、時々片手をハンドルから離しては、白い息をふきかけている。まだ細い肩に雪を積もらせたコート姿からは、彼がどこの学校の生徒なのか、判じることはできなかった。
「急に降ると、街の人は大変よね……」
もういちど呟くあたしの姿に、少年は目もくれない。いや、ここに自分以外の存在がいること、知らないんだ。
「では、《改変》するか」
さっきの声が、今度はもっと近くで聞こえた。あたしのすぐ横に、長身の男が立っている。いちめんの雪に、みごとな金髪と、黒い衣装がよく映えていた。
「……今度ね」
微笑んで、あたしは首を左右する。頭を動かしても、そこから雪が落ちることはない。もともと、積もってさえいないのだ。
あたしは、少年のように白い息を吐きだすこともなく、雪原に足跡をのこすこともなかった。
「《皇帝》……」
最愛の夫の名をつむぐ。彼の黒く大きな肩あてや、闇のようにひろがるマントにも、雪は一片たりと積もってはいない。優しく見下ろす瞳は、夜空の星か、ダイヤモンド細工を思わせた。
この星は、いつもあたしを見守ってくれる。
いつも……いつも。
あたしは、視線を雪の街にもどした。真白に染まるにしたがって、世界は普段よりも広くなる。
遠く遠く―――その果ても定かではない。
世界は、あまりにも大きい。
そして、あたしの力はあまりにも小さい……。
我知らず、ためいきが唇をついて出る。
「……わっ」
急に、視界が暗転した。暖かい布の感触から、あたしはもこもこと首だけを飛び出させる。身体をひねって、斜め上の秀麗な顔を見遣った。
「《女帝》に風邪などひかれては困る」
「まさか!」
マントにくるまれたまま、ニヤリ、と笑いあう。
タロットの精霊に、温度など関係ない。もちろん、風邪なんかひくわけなかった。けれど確かに、マントの中は暖かい。
「《女帝》の衣装は白いからな。雪白の世界に放っておくと、消えてしまいそうだ」
「まさか。そんなこと、あるはずないよ」
同じ否定の言葉をくり返す。あたしが、《皇帝》を置いていくなんてこと、あるわけがなかった。
置いてゆくのは……。
置イテユクノハ、アナタ。
世界も、そしてあなたも、あたしは失いたくない。
《改変》で未来が変わるなら、大切なものを失わなくてすむなら。それが駄目でも、せめて自分の未来は自分で選んだと、後悔はしていないと、言えるように。
そのために、あたしはここにいるんだ。
だけど、それは言わない。うつむいたあたしを見て、《皇帝》は明るい声を出した。
「それに、なんといっても、《女帝》の衣装は寒そうだからなァ」
「まあ、ね。さっきの少年が見てたら、腰抜かしてたでしょうね」
「《皇帝》以外の者に、見せる必要などない」
至極真面目な顔で言い切り、抱く腕に力をこめてくる。
あたしはくすっと笑った。なんだというように、夫の目がこっちを見ている。
「……あったかい」
それには答えず、こてん、と広い胸によりかかる。ここにいると、何でもできそうな気になるのが不思議だった。
いつか夕闇がせまり、空は白から青灰色に変わっている。鳥たちも寝ぐらに帰り、あたりは本当に静かだ。
「……《女帝》は、守りたいと思うのだろう」
ややあって、《皇帝》が静かに言った。雪はやみ、銀杏の枝に細い三日月がひっかかっている。
「この世界を、この世界に住む人々を、《女帝》は守りたいと思うのだろう?」
無言のまま、あたしはうなずく。幸せに、幸せに生きていてほしい……それだけが、あたしの願い。
「案ずることはない」
穏やかに、しかし毅然と、彼の言葉は続く。
「《皇帝》は、そんな《女帝》を、こうして支えていよう。世界を守る《女帝》を、いつの時も《皇帝》が守り、支えよう」
《女帝》が、その小さな背中に何十億の人間を背負っていようとも。
俺は、おまえを抱きしめることをためらいはしない……。
「うん……」
懐かしい台詞は、つい泣けてしまうほど暖かかった。涙に濡れた顔を見られたくなくて、マントにいっそう深くもぐる。
力強い腕のなかで、あたしは幸せだった。月の雪原は、夜というのにほんのりと明るい。
皆が皆、幸せでいることなんてできないのかもしれない。誰かの幸せが、誰かの不幸によってもたらされる場合だってある。
だけど……そう、だけど。
たとえば雪の夜、家族で暖炉やこたつを囲む幸せ。それがある世の中であってほしい。
そんなささやかな笑顔が、踏みにじられない世の中であってほしい。
「きっと、できるよね」
三度目のつぶやきに、彼はもちろん、と応えてくれる。
「大丈夫だ。《皇帝》は、《女帝》のことを離しはしないさ」
「うん……そうだね」
信じてる。信じてるよ。
想いをこめて、あたしは愛する人の瞳をみつめた。きら星は小揺るぎもせずに、まなざしを返してくる。
優しいかがやきのなかに、うなずくあたしの姿が映っていた。
−了−
1999.2.11up,It was snow.
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