投稿者:碧澄甲斐さん
日差しは柔らかく、静かに教室に降り注ぐ。
夏の喧騒を拭い、冬の悲鳴を呼び込む、秋の乾いた光が。
私は彼の名を、何度も呼ぶ。
最初は囁くように小声で。お終いには肩に手をかけて押しながら。
「片桐くん」
足の指は必要なさそうだけれど、片手では足りないくらい呼んだあと、ようやく彼は私に気づいた。
「
さん」
片桐くん―――片桐洸一は、私のクラスメイトである。
顔良し・頭良し・性格良しという非の打ち所のない奇跡のようなこのヒトと、同い年であることが時折信じがたい程だ。
ただ、親衛隊なるものが彼を崇めるのと同じように私には感じられないのもまた真実だ。
三年間(私は中学校は普通の公立だった)たまたま同じクラスだったこと、彼と共に生徒会役員を経験したこともあって、彼の意外な面を目にする機会が多かったからだろう。
例えば、彼はのびたくんだ。つまり、いつでもどこでも眠れる特技を持っているらしい。
生徒会室でも、幾度か、文庫本片手に本人の希望によるものではない不本意な仮眠を、つまりうたた寝をしているところを見かけた。ちなみに文庫本はSFだと教えてくれた。
例えば、たった今のように。
声をかけても返事をしない。
ただし、こちらはごく最近になって頻繁に起こるようになった気がする。
「授業、終わってるよ」
「……ああ」
古文の授業の前半は、わりと真面目に板書しているように見えた片桐くんは、後半はじっと虚空を見つめ難しい顔をしていた(ようだ。斜め後ろから見ていて推測するに)。しかも時折溜息を挟み込んでいた。
「悩みごと?」
「………ああ」
さっきよりも躊躇いがちな片桐くんの返答だった。
それともまだ上の空なのだろうか。
「恋の悩み?」
私の重ねた問いに、片桐くんは一瞬目を見開く。しかし驚愕の表情はすぐに微笑で塗り替えられる。
「残念ながら、さんの期待には添えそうもない」
「そっか」
私は横から片桐くんの正面に移動する。まだ開いたままだった片桐くんのノートを視界の隅にとらえた。
私の視線に気づいた片桐くんは、はっとし、ノートを出来るだけ静かに閉じる。
古文だったのに、彼のノートに書かれた文字は横書きだった。それも長い文章ではなく、いくつかの単語や短い文章が所狭しと散りばめられていたのだ。
見てはいけないものだったのだ、と私は悟る。片桐くんの雰囲気がより一層近寄りがたいものへと転じたのが分かったからだ。
「ノート、見る?」
だから私は、努めて軽く提案した。
「板書してなかったんでしょ? 古文は得意だから、後で私のノート、見せてあげるわ」
「すまない」
「その代わり午後の数学の宿題、分からなかったところを教えてもらえる?」
交換条件よ。
だから、この話は終わり。
と、匂わすと、ようやく片桐くんの緊張が解ける。
私は一旦自分の席に戻ると、次の授業の準備をする。その間、片桐くんは座ったままだ。
「ねえ、片桐くん」
「…まだ、何かあるのかな」
「―――――次の時間、実験室に移動なんだけど」
生物の教科書を掲げて見せると、片桐くんは周囲を見回す。
既に人はまばらだった。皆片桐くんに変な遠慮をして声をかけなかったから、休み時間は半分以上過ぎ去っている。
「すまない、
さん」
―――――変な片桐くん。
変、といえば。
片桐くんに関する妙な噂が、最近流れている。
「さん、何も私と一緒に行くことはないだろう」
「目的地が一緒なのに、連れ立って行かない方がおかしいと思うけれど」
「だが」
片桐くんが心配しているのは『親衛隊』のコたちのことなのだろうと見当がついたから、私は大げさに肩をすくめてみせた。
「副会長をやっていた頃に小うるさくまとわりつかれたことはあったし。今更なに? あのコたちには言わせておけばいいの。
知ってるでしょ、私がこわいもの知らずなのは。
片桐くんが手綱を引き締めてくれてちょうどいいぐらいなんだから」
「だから、」
先程の彼の発言は『私の手綱を引く』行為に他ならないと、言葉よりもきらめく眼差しが雄弁に告げている。
でも、甘いわよ、片桐くん。
その程度で私が止まらないことも、あなたは良く知っているはずよ。
「そう、私はこわいもの知らずだから、噂なんてせずに直接聞くわ。
片桐くんのさっきの悩みと、最近の噂、関係あるの?」
あるんでしょ?
急に立ち止まった私のスカートのプリーツは、慣性の法則に従いふわりと前に揺れる。やや遅れて足を止め振り返った片桐くんは、少なくとも表には動揺が現れていなかった。
「ああ、関係あるんだ。
私には、何故あのような噂を立てられるのか、思い当たる節がないからね」
片桐くんの周りで、急に風が起きて女の子のスカートがめくれてしまうとか。
片桐くんが取ろうとするもの、例えば靴が勝手に浮いて飛んでくるとか。
休日に、服をぼろぼろにして帰ってきたとか。
繋がるようで繋がらない、妙な噂の数々に悩んでいる、と片桐くんは言った。
でも、私はそれを信じない。
彼の様子が最近変わったのは、私の目で確かめた事実だからだ。その変化と噂を結びつけるものがあるのではないか、と私は思っている。
黙って見上げる私の視線に応えようと、片桐くんが口を開いた。
だが、その唇が言の葉を紡ぐより早く、私の口から悲鳴がほとばしった。
「きゃあっ!!」
突然風が巻き起こったかと思うと私のスカートがばさっとめくれ。
さらに。
「な、何……今の……っ」
私の思い違いでなければ、手が、太ももからおしりにかけて撫で上げる感触がした!
しかも、少し固い皮膚の感じは、成人男性のものだ。
ふと気づくと、片桐くんは教科書類を持っていないほうの手をぐっと握り締めていた。手の甲には血管が浮き上がりそうな勢いで、きつく、きつく握っている。そのこぶしはわなわなとふるえ、今にもどこかへふるわれそうな、剣呑な気配を有していた。
片桐くんの瞳は怒りの余り潤んで、私の背後の一点を凝視している。
私は振り返った。
けれど、予想通り……噂通り、私の後ろに人はいなかった。廊下の窓も閉められていて、風の入ってくる余地は、ない。
顔を元に戻すと、片桐くんの手は緩く開き、代わりに額に当てられている。指は眉間にぐいぐいねじ込まれ、何とか落ち着こうと努力している様子が見えた。
「片桐くん」
「………疲れているんだ」
私が険しい声で呼びかけると、片桐くんは額から手を離し私と目を合わす。虚空を睨んでいたときのような鋭さも、それでいてどこか生き生きとした色も、きれいさっぱり拭い取られているよそ行きの眼差しだ。
「み、見た?」
続く私の問いに、片桐くんはきょとんとした。折角のポーカーフェィスが崩れてしまう。
「見えた?」
重ねた言葉に、何を見たのか、何が見えたのか、私が尋ねていることを彼は理解した、らしい。ほんの僅かに眉が下がり、困ったように首を振る。
「ちらっと?」
片桐くんを追い詰めるために私がさらに言葉を重ねると、片桐くんの振られていた首が止まった。
その瞬間片桐くんが自分の仕草に関してしまった、という表情をしなかったのは流石と誉めるべきか莫迦だと呆れるべきか。
とにかく、私は確信して叫ぶ。
「ちらっと、スカートの中を見たのね!」
「見えた、んだ。違う、誤解だ!」
珍しく声を荒げる片桐くんの様子に、周りの人間が何事かと振り返る。しまった、注目の的になってる。
私は声のトーンを大幅にダウンした。
「もぉ、いいよ。どっちでも」
「………すまない」
「片桐くんが謝ることじゃないでしょう? むしろ言うべきは御礼よ。良いもの見せてもらいました、って」
私の言い様に、片桐くんは困惑の表情を浮かべる。真面目な片桐くんには少しキツいジョークだったみたい。
「でも、これで身に覚えはないとは言わせないよ」
「……………」
片桐くんは言い逃れを思いつかなかったのか、黙秘権を行使してくる。
妙な噂に関して、実は私自身は半信半疑だったものの、これで信じざるを得ない。
けれど、私は同じクラスの安西さんと違ってオカルトには興味が湧かない。
重要なのは、噂が出始めたころに私が片桐くんの変化を感じたこと。
噂を信じられるなら、私が感じた彼の変化も、気のせいではない。私は自分の感性を信じてもいいはずだ。
「でも、聞かないであげるわ」
否定の接続詞とともに、私はにやりと意地の悪い笑みを片桐くんに向けた。彼は何故、と視線で問う。
「噂が、片桐くんのイメージを損なうという人が多いけれど、私は、最近の片桐くんはイイと思うもの。
確かに様子はおかしいし、難しい顔をすることも増えた。
でも、以前の隙のなさが綻びたことで、ずっと親しみやすくなったように感じるよ」
さっきのびっくりした顔ったら! と指摘してみせると、片桐くんの表情がますます歪む。
片桐くんが負のニュアンスを持つ表情を浮かべることはめったにない。私は、ある意味貴重なご尊顔を丹念に鑑賞したあと。
笑みを、転じる。
少なくとも片桐くんを困らせたりはしない、単なる笑いに。それを彼がどう受け止めたかまでは、私が責任を取ることは出来ないけれど。
「だから、私。今の片桐くん、好きよ」
瑕一つない珠のような完璧な観用少年に、私が惹かれたりするものですか。
「だから、何か困ったことが起きたら、遠慮なく私を頼って」
片桐くんはしばし考え込んだあと、小さく頷き、それから思い出したように付け足してくる。
「私が頼れば頼るほど、
さんの数学の勉強がはかどるという仕組みなのかな?」
「察しが良くて助かるわ。流石片桐くんね」
くすり、と微笑みあって、私たちは実験室へと急いだ。
そのとき私は、片桐くんの変化というものが、彼を更なる憂いと苦悩に陥れる可能性を秘めていることに全く気づかなかった。
けれどもしそのことを知っていたとしても、私は迷わず片桐くんに協力を申し出ていただろう。
観賞用の完璧な姿がひび割れて本当の彼の姿が覗くのを、見てみたかったから。
片桐くんが私に与えたその承諾が、形だけにすぎないということも理解していても、可能性を自分の手で消し去ることはできない。。 |